告知の時☆ 過去17年前。。名前は、仮名です🍓
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告知の時☆
1998年6月末期の肺がんで、父が逝った。
その後、小さなスーパーを転々とした。
やっと大型スーパーに勤務し、人間関係の良い職場に巡り会った。レジ係りから、サービスカウンターにステップアップ
目指してた。
ある休日に私服で買い物してたら、障害者から笑顔で挨拶してくれた。その半年後に自分が、障害者になるとは想像しなかった。
15年1月頃から、四十肩と思い整骨院に通院してました。
年末年始の忙しさで疲労していると思ってました。3月頃から少しずつ重たい酒ビン、米など持ち難くくなりました。食品レジから、衣料品レジに移り仕事していました。整骨院に通院してましたが、治らず不安でした。
平成14年12月頃から利き手である左手の指が少し曲がっていると感じました。私は冷え性で、春先になれば良くなると思ってました。
黒田整形外科に行きました。そこで、初めてMRI検査しました。A先生は、私の手の甲
を見た。「親指と人差し指の所、へこんでる。普通は膨らんでる。」と、言われた。
この病気は、産業医大か、K大に受診する様に言われた。実は亡き父が、末期肺癌の告知受けた病院だったから産業医大には行きたくなかった。
そして紹介され5月末、産業医科大学病院の神経内科に検査入院しました。たくさんの検査のなかで、筋電図が痛かった。手から足の先まで検査して痛かった。
私がALSの告知を受けたのは、平成15年6月中旬でした。 忘れる事ない告知の日。
6月中旬に母と私は、主治医上村先生から告知受けました。筋萎縮性側索硬化症で進行性の病気と告げられました。聞いた事ない長い病名?ただ呆然と聞いてました。治らない病気、進行性の病気と説明されても呆然としていました。母は、心臓の持病があり母のことが心配でした。母がいなかったら、取り乱してたと思う、我慢してました。
母が自宅に帰った後、近所に住んでいる母の友人、堀田さんに電話しました。
告知の事はなして、母の事心配で頼みました。
近所の人が良い人で助かりました。母が帰った後、
ALSの小冊子を読んだ時の方がショックでした。まさに青天の霹靂!!!
まだ45歳、沢山やりたいことあるのに何で私がこんな目に遭うのか!
同室の人も難病で、告知受けたばかり。お互いに愚痴りまくった。暇で、二人で病棟の階段を8階から下って降りたりしてた。
看護師さんから、危ないから注意された。看護師さんから聞き、大学内に居る孔雀を見に行き気分転換していた。この人が居たから、耐えられた。
自由に動き回れたのは、看護師さん達が、見守ってくれたから。ありがとう。難病相談員、中谷さんからALSの説明やビデオ教育受けました。
6月末に退院してから考える暇なく、手続きに追われていました。手続きで、近くの保健所初めて知りました。初めてで保健師の小西さん、木島さんに教わっていました。
仕事の方は一旦5月末に退職しました。退院したら、病院に通院しながら他の部署での仕事復帰の約束でした。辞退するしかありませんでした。人間関係も良く、仕事しやすい環境でした。 これから頑張って働きたかったので残念です。書店何軒か行きました。
どの家庭医学書見ても書いてあることは同じでした。絶望的な気持ちと、間違いであってほしい気持ちが交差していました。手が悪いだけで歩けたし、車運転していたし、まだまだ大丈夫と思っていました。本当は、先生から運転はしない様に注意されました。
8月初旬母と北海道旅行に行きました。
母は初めての飛行機旅行でした。晴天に恵まれ、上空からの眺め最高でした。霧の摩周湖よく見えたし、ラベンダー畑、美しかったです。3泊4日の旅良い思い出になりました。
幼稚園から中学まで小児喘息で、母に看病して貰いました。本来なら私が介護するはずが、逆の立場になりました。母には、苦労かけています。
8月中旬、岡田介護支援センターに決め、ケアマネージャーは上田さんに決まりました。
決めた理由は、介護支援センターが母の通院しているの横にあった為です。母が通院しているO病院にリハビリに行くことにしました。病院の送迎車あり助かります。O病院には、神経内科ないけど受け容れてもらい感謝します。週3回リハビリで、毎週土曜日は、産業医科大学病院から診える仲間先生から診てもらう事になりました。仲間先生は、ALS患者さんを診た事があるので心強いです。O病院でALSの事知っている仲間先生に出会えて本当に良かったです。O病院のリハビリの先生方は、よく冗談を言い患者さんを笑わせていました。お陰でリハビリに行くのが楽しみでした。
週1回ヘルパーさんに来て貰いました。先の事考え、ノート型パソコン買いました。 公民館にパソコン習いに行きました。婦人会主催でした。45歳で初めてのパソコンで、ローマ字の綴りから覚えました。
吉田先生や婦人会の人にはお世話になりました。パソコン持参でしたので、重たくて習いに行くのを断念しました。別のパソコン設置がある教室に習いに行きました。パソコンで初めてのメールは、
中谷さんで返事が戻って来るまで不安でした。届いたかどうか(=^・^=)。。 最初高いパソコン買ったのは、良いけど使いこなせるか不安でした。病気の事考えない様にしてました。
ふと、死のうと思いました。今なら、楽に死ねると。。
でも、私の兄が20歳でなくなったときの亡き父の男泣きの脳裏に思い出し思いと
どまりました。
私は、母を悲しませない為生きる決意しました。
4週間に1回、産業医科大学に通院していました。病院の駐車場の整理券が取れない! 後続車から、クラクション鳴らされました。
エンジンきり、車から降りて整理券とったこと覚えてます。車に乗れないことが悔しい(;_;)
まだバックで車庫入れしていたのに・・運転止め間した。リハビリとパソコンの繰り返しの日々でした。私は最初、告知した人だから上村先生を快く思ってなかった。上村先生の診察室の前で待ってると、自らドア開けて、患者の名前呼び招き入れてくれた。
診察室で、名前をマイクで呼ぶ先生居るのに。上村先生は、気配り出来る優しい人だと思った。
神経内科室では、不安な事話した。終えて、難病医療相談室で中谷さんと、不安な事話しまくってた。
上田マネジャーから、上村先生がALSの講演活動してると聞きました。熱心な先生だと思いました。
私が、新聞の「声の欄」に、掲載されました。上村先生から、褒めて貰嬉しいです。
産業医科大学病院は、多くの地域から難病患者が、集まっています。
せめて進行が確実に抑える薬が見つかるように願っています。
平成15年11月、ALS福岡支部の交流会、飯塚市のA病院でありました。初参加でした。
小西さん、木島さん、母と4人で行きました。初めて呼吸器を付けた人見て、少しショックでした。
1年で両腕動かなくなった人と話したりしました。先生たちの話しの内容など覚えてません。
呼吸器を付けた人見たので・・・ 一人の患者に多くの人が、介護に携わっている事知った1日でした。
パソコンを習いに行く時は往復40分は歩いてました。近くのスーパーも往復歩いてました。
木島さんから「難病と在宅ケア」の本見せて貰いました。本に載っていた、神奈川の島田さんとメールするようになりました。 古田さんの紹介で小倉のKさんとメール友出来ました。
インターネットでALSの情報見たとき夜、眠れませんでした。それからは昼間見てます。ボランティアの人からのアドバイスもあり、良い情報選びネット生活してます。 人により症状が違うので、専門医に相談する事です。自分から進んで聞いた方が良いですよ。先生に今の症状を伝える事が大事です!!。
12月の産業医科大学病院の受診日まで、一人で行ってました。転ぶ事多くなりました。
平成16年1月。 病気になっての正月は、もち抜きでした。粒餡餅大好きで食べれない(;_;)。
3日友人、枝岡さんと階段の少ない岡田神社に初詣に出かけました。買い物、お喋りと楽しい日でした。
団子入りぜんざいおいしかった。自宅に帰り着いた途端つまづき怪我しました。せっかく
お参りしたのに・・・かすり傷でした。
1月末、神経内科は母と行きました。帰り道、下り坂過ぎた所で転びました。顔に擦り傷で、記念病院に行きました。レントゲン異常なしで、
顔と手を擦り剥いただけでした。2月から介護タクシーで通院するようになりました。受診日、上村先生に話す前に顔の傷跡の事聞かれました。
3月初め、母と二人で同じ病気Kさんに会いに行きました。
本当は2月に会う予定が、傷跡があり延期しました。Kさんは車椅子に座り足で、伝の心操作してました。
はじめて見ましたが、難しそうで私に出来るかな? 住宅改修し段差ないのを見て、参考になりました。
Kさんの可愛い愛犬とじゃれたり、おしゃべりしたり楽しい時間でした。
毎日新聞の声の欄に投稿文載りました。ALSの事書きました。
パソコンの吉田先生の奥さんと母が、元同僚でした。昔パン屋に勤めていて、私も何度か会ってました。
偶然に感謝です。
吉田先生はボランティアで、夢メールや音楽入れて貰いました。吉田先生から無料のソフト、ハーティラダ教えて貰いました。
4月には近所の人、母、私5人で宗像の方に藤の花を見に行きました。丁度見頃でした。
色々見たり買い物したり楽しく過ごしました。 この頃まで近くのスーパーにゆっくりとですが歩いて買い物に行っていました。
枝岡さんと会った。自宅近くまで来て貰い、ファミリーレストランで食事しながらお喋りしました。 楽しかったです(=^・^=)
5月には福岡支部の総会・交流会に行きました。
福岡の会場までは往復介護支援センタ-の波田さんに車で送って貰いました。波田さんは母の友人堀田さんの娘さんで親子でお世話になっています。近所に住んでいますので心強いです。雨の中でしたが、
沢山来ていました。他県からも来ていました。心友シソさんと、出会いました。。
体験談聞いたり参考になります。福岡支部長の古田さんの奥さんいつも元気な声で、古田さんの世話して動き回ってます。 感心します。この時、交流会で同じ病気の人と知り合いメール交換しています。
5月に父の7回忌、兄の33回忌も一緒に済ませました。本当は6月でしたが、梅雨前にしました。
兄が生きていたら、脇田さんと同じ年です。脇田さんが兄のようで、メールしてます。
6月には私の症状が進行しました。週三回入浴介助ヘルパーさん頼みました。告知受けて1年。
慌しい日々でした。 朝日新聞の読者の欄に投稿しました。私の気持ちを書きました。載った後、ALSらしいとAさんから手紙貰いました。何度か電話で話しました。Aさんは、病気の診断受けないで高齢の親と暮らしているといいます。 別に隠す病気ではないし、周りに話してないようです。
ALSになったら良い意味で開き直り、公的機関を使い周りのサポートが必要だと。古田さんの奥さんが言いました。家族だけでは無理、周りの協力が必要です。同時にケアマネジャー、ヘルパーさんにALSの事理解して貰うことです。
症状伝える事大事です。
7月、食事する時腕が上がりにくいので中谷さんに相談したら腕の装具、スプリングバランサーがある事を知りました。古田さんや他の方のアドバイスを受けました。
8月にバランサーが届き食事するのが楽になり助かりました。バランサーの業者、A製作所にはもう1つ2ヶ月間だけ試作品を使用することが出来助かりました。8月、漸く住宅改修が終わりました。
玄関は石段があり段差もあり車椅子を通るようにするには、200万円以上かかる為思案していました。
すると堀田さんの提案で、家の裏の塀を壊して空き地に車椅子が通る幅だけ借りることになりました。
空き地の地主さんの許可を得て、町の補助を受けての完成です。アスファルトの道で通り易くなりました。
私の部屋にレンタルの昇降機を取り付けました。部屋から裏庭に直接出入り出来るようになりました。
直方メディカルサービスのTさんには、レンタルの件でお世話になりました。皆さんの思いやりに
感謝しています。色々周りの人に相談してよかったです。
10月、家の中では歩行器を使用していますが、まだ歩ける事、喋れる事に感謝しています。岡垣町では私が初めてのALSの患者で役場とか理解
出来ない状態でした。前回投稿して余分に頂いた福岡支部だよりを役場などに配りPRしました。
今ではケアーマネージャーなどの協力で色々な町のサービスを受けています。 少しでも年の母の負担を軽くする為です。最近メール交換していて気づいた事があります。私はALSの事をよく知っている主治医の上村先生、週1回リハビリの仲間先生に診て貰える事に感謝しています。人により通院が片道1時間以上かかる人、近くにALSの病気の事を知っている先生がいない事です。全国で8千人しかいないので無理でしょうが・・・ALS患者さんの中でも、家族性の患者さんの方が大変だと思います。
遺伝する確率少ないです。遺伝しない確率が高い事です。前向きに。後戻り出来ない、後ろ振り返っても仕方がない。まえむきに!プラス思考で!心の問題では中谷さんやメール友達に感謝しています。
まだ話できるメール友だちとは、よく電話してます。友人の言葉ですが「良い事さがし心リセット」私の気に入った言葉です。
神奈川の島田さんには心休まるテープ送って頂き感謝しています。新潟の方ともメール交換しています。水害、地震どう言葉をかけてよいのか・・・水害や地震のない町に感謝です。
(※平成16年10月の福岡支部たよりを参考にし、5ヵ月後に地震が来るとは思いませんでした。)
良いメール友だちに感謝です。母やたくさんの人たちに感謝しています。ありがとうございました。
平成16年10月頃。北九州市、ウエル戸畑で‘難病と意思伝達装置’の研修会に参加。
上田さん、ヘルパーさんと3人で行きました。久し振りの外出、ドライブ気分でした。
11月。保健所で、ミニ患者会に参加。産業医大の上村先生、中谷さんが講師です。
産業医大の診察日に入院していたUさんに会いました。会えて良かったです(*^_^*)。
12月。産業医大に3週間検査入院。飲み込みの検査などしました。
平成17年1月。お正月は、近所の人からおせち料理差し入れがありました。嬉しかった。お母さんの手作りの黒豆美味しかった。
1月5日。産業医大の診察日。診察を終え、リハビリ室でパソコンボランテァ北九州の村井さんに会いました。
マウスが使い難いので相談しました。
帰宅後4時過ぎ、パソコンする為部屋に行きました。
コードに引っ掛かってないのに、立ったままうつ伏せに倒れました。O病院にいきました。口の中噛んで出血していたので、口腔外科のある産業医大に救急車で運ばれました。初めて救急車乗りました。口の中8針縫いました。神経内科に入院。レントゲンの検査の結果、異常なし。口の周りが大きく腫れ上がり、皆から別人と言われました。食事出来ないので、1週間24時間点滴でした。いずれ言葉を失う時が来る、こんな感じになるのかと思いました。上村先生、中谷さんたちと話し合いました。高齢の母の事、大怪我しないうちに考えました。在宅から、病院に長期入院する事に決めました。中谷さんに受け入れ先の病院頼みました。暫くして、リハビリした時歩くのが怖かった。
3週間後退院。お母さんに黒豆食べたいと言うと、もう食べてないと言いました。
食べたかった(・_・;)。ヘルパーさんの回数増やしました。毎日朝晩30分ずつ身体介護。週3回の入浴介助と買い物2時間30分。
2月。吉田先生にハーティラダ習いました。ALS患者さん3人と、友人2人と電話でよく話しました。
ヘルパーさんとのお喋り楽しみでした。
3月。ヘルパーさんに私の好きなグラタン作って貰いました。4人分でしたが、夕食に母と食べました。
翌朝、残り食べようとしたら母が食べてた。D病院から、入院の許可下りました。
中々受け入れ難しいので、急に決まったので慌てました。
10日。自宅での最後の日、慌しかった。
27年間の思い出が・・・庭石の階段は父と母の手作り。亡き父が、盆栽が趣味でした。沢山思い出のある家・・・
Hさんが、入浴後写真を撮って貰いました。11日朝、昨日の写真、寄せ書き、ヘルパーさん
全員の写真貰いました。D病院に長期入院。母が帰った後、ヘルパーさんから貰った寄せ書き見てました。嬉しいです。
次の病院は、浜中さんが見つけてくれた。実家の近くのN病院。
初めてのALS患者受け入れてくれた。
リハビリPTの佐伯さんは、専門学校卒業したばかりでALS患者初めてだ。
STの岡村さんは、ベテランでALS患者知ってた。リハビリと散歩で、3時間してた。
リハビリ実習生や看護実習生沢山出逢えて、良かったです。
看護師さん、ハートの形した花壇作ってくれた。ミニ雪だるま作ってくれた。
上岡さんや浜中さんが、心友の梅宮さん宅に連れってくれた。お互いに色んな話して楽しかった。
2007年7月1日から、ブログ始めた。途中操作解らず、諦めかけた。亡き島田さんは、ブログ始める前に亡くなった。
島田さんの意志を引き継ぎたいと思った。
2年7ヶ月お世話になりました。沢山思い出をありがとうございました。
現在、呼吸器着けて居ます。ALS歴14年2ヶ月で、神経根症(左足の痛み)、喘息と共に、生きます。
告知の時、呼吸器装着迷いました。
数年後、上村先生と、生きて再会しました。
10年後、ハーティラダの開発者や村井さんやリハビリ実習生さんに、会えるとは、
思わず、生きて居て良かったと思いました。
心の支えは、心友と共に、生きたいです。渡哲也様に、お会いしたいです!
(普通のパソコン→ハーティラダ→伝の心→オペレートナビ移行したけども、
唯一この日記だけ、残っていました。)
福岡県